コットンポットたけし

なにげない疑問をとことん追求します!

理想的な組織とは?

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こんばんは(^^)/

 

たけしです!

 

 

 今日は組織について考えようと思います。

 

皆さんは組織と聞くと何をイメージしますか?

 

私は会社や学校をイメージします。

 

会社では社長がいて、その下に副社長、専務と役職順にピラミッド型の組織ができますね。

 

学校の場合は、担任の先生がいて、その下は皆同じく一人の生徒ですね。

 

ピラミッド型の組織の場合、トップダウンの経営となり、上から下への一方通行の関係になりがちだと思います。

 

この組織の場合、軍隊のように上司の命令は絶対守るので、統率はとれるかと思います。

 

しかし、本当の意味での統率が取れるでしょうか?

 

下の人は上の人の命令に従わないといけないので、従いますが、心のうちの思いに反することもあり得ます。

 

組織がより生きたものとなるには、上の人、下の人、双方からのやり取りが必要だと思いますし、行き過ぎた上下関係はなくした方がいいかと思います。

 

組織として経験の長い上の人の意見がとても貴重なのは分かりますが、若いフレッシュな人達のアイデア、意見を取り入れた時に、より組織は良いものに変わると思います。

 

だれが一番会社にとって優れた人材であると決める必要はないし、皆がそれぞれ個性を持った人材であると私は思うからです。

 

自分の努力が認められるならば、どんな人であろうとやる気になるかと思います。

 

だからこそ、私はよりフラットな組織を作った方がいいかと思います。

 

もちろん、社長は会社においては最高責任者であるので、上の立場であることは変わりませんが、よりお互いが学びあう関係でできたら私は理想的であると考えます。

 

社長を頭にして、他のは人達はそれぞれの位置で役割を果たしてこそ組織は生きる、そうだと私は信じます。

 

 

この辺りで失礼します。

今日も読んで頂きありがとうございました(#^^#) 

ではでは~

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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なんのために学校へ行くのか

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たけしです!!

 

突然ですが、皆さんはどうして学校へ行くのか知っていますか?

 

私は正直、何のために行くのか自信を持って言えないです(笑)

 

学校に行く目的、それは知識を得ることですか?

 

それとも集団生活を学ぶためですか?

 

学校へ行く目的は残念ながら誰も教えてくれません。

 

私は何も分からず、ただ目の前の課題、テストを通過するためだけに学校へ行っていたかと思います。

 

そして、就職に備えて資格を取得することや、スキルを身につけることをずっと考えていました。

 

では、学校へ行くのは就職のためでしょうか?

 

それだけのために行くならば、資格取得のために専門学校だけ行けばいいのではないでしょうか?

 

大学では専門科目の他にも教養科目があり、直接的には専攻している分野とは関係のない科目を選択できます。

 

だけど、大学へ行く目的が結局就職であるならば、それは遠回りのような気がします。

 

私は自分で人生を選択していなかったように思います。

 

環境のせいばかりにして、自分の人生を他者の期待のために生きていたように思います。

 

学校へ行くからには自分で学校へ行く目的を明確にすることがとても大切だと思います。

 

私は大学1年生の時、友達と深夜のドライブに行ったりして遊んでばかりでした(笑)

 

大学生は休みが人生の中で一番長い時期ですので、遊ぶのもいいのですが、それだけに時間を使ってしまうのはちょっともったいないと思います。

 

せっかく沢山の時間があるのですから、有意義な時間にできたらいいですね。

 

いまいちど、学校へ行く目的を考えてみてはいかがでしょうか?

 

 

今日はこの辺で失礼します。

ありがとうございました!

 

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

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理想的な関係性とは?

こんばんは~(*^^*)

 

たけしです!

 

今日は社会人の方たちはプレミアムフライデーでしたね!

 

皆さんの会社はどうでしたか?

 

私の会社は通常通り17時半までの業務でした(T_T)

 

プレミアムフライデーわからない方はググってみて下さいね。

 

 

今日は人間関係では切っても切れない上下関係について考えたいと思います。

 

上下関係には良い点、悪い点、それぞれあると思いますが、特に悪い点としては先輩の言ったことに後輩が絶対に従わないといけない一方的な関係であることです。

 

例えば、暴力団の組織を考えてみましょう。

 

暴力団では上の人が言ったことが絶対です。

 

だから組長にある人を殺せと言われたら殺さなくてはなりません。

 

もし、それに歯向かうならば自分が殺されるかもしれません。

 

このように上下関係は対等な関係とは程遠い関係であることが分かります。

 

理想的な関係は対等な関係だと私は思います。

 

お互いがお互いを尊重し合い、認め合う関係、それが最高の関係ではないでしょうか?

 

一人一人が違う色の個性を持った人たちです。

 

100人いれば100通りの色、つまり100通りの個性があります。

 

それを比較して、どの色が一番美しいのか決める必要はないのです。

 

全ての色が調和をなした時に美しいのではないでしょうか?

 

しかし、人は誰でも一番なりたいと思います。

 

誰よりも自分が勝った存在、特別な存在でありたいと願います。

 

認められたい欲求、つまり承認欲求があるから人は権力を持とうとするのではないでしょうか。

 

だから、競争が起きるのではないでしょうか。

 

自分は赤色なのに、黄色になれるでしょうか。

 

自分が赤色ならば、赤色でもっと輝けばいいのではないでしょうか。

 

それなのに無理やり黄色になろうとしたりするから苦しいのではないでしょうか。

 

話があまりまとまらなかったですが、理想的な関係は上下関係ではなく、フラットな対等な関係にあると私は思います。

 

みんな一人一人が貴重な存在であること、だからこそ、自分という存在も本当に貴重なかけがえのない存在だと私は思います。

 

 

 

今日は話がすこし飛躍しすぎたかもしれないですね(^-^;

 

最後まで読んで下さりありがとうございます。

 

もっとうまく書けるように頑張ります(^^ゞ

 

ではでは、失礼します~

なんのために働くのか?

こんばんは(^^)/

 

たけしです!!

 

 

今日はなんのために人は働くのか考えたいと思います。

 

私は大学の時にキャリアセンターの人に『なんで就職するの?』と質問されました。

 

その時、私はその質問に答えられませんでした。

 

いきなり核心を突かれた感じで、私はびっくりしてしまいました。

 

その後にキャリアセンターの人に言われたのが、『食べていくためじゃないの?』と言われ、そうなのか?と疑問に思ってしまいました。

 

確かに、ご飯を食べるために働くのは一つの目的ではあるが、本当に働く目的は一体どこにあるのでしょうか。

 

マズローの欲求5段階説では、人間には5段階の欲求があると言っています。

 

生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、尊厳欲求、自己実現欲求と段々と欲求の次元が高くなっていきます。

 

仕事の目的が食べていくためであれば、生理的欲求(食べたい、飲みたい、寝たい)を満たす段階と言えます。

 

しかし、私はそれだけを目的に仕事をするのはおかしいのでは?と感じました。

 

では、なぜ食べて、飲んで、寝るのでしょうか?

 

それは生きるために必要なことだからと言えます。

 

では、なんのために生きるのか?

 

それは幸せになるためだと思いますが、幸せとは何でしょう?

 

マズローは5段階の次の欲求があると言っています。

 

それは何でしょうか?それは『自己超越』です。

 

目的の遂行、達成だけを純粋に求めるという段階です。

 

私の中で仕事に対して求めているのはまさにこれだったんだと思います。

 

他人に言われてする仕事でもなく、誰かに認められようとしてする仕事でもなく、ただ、ただ目的の遂行、達成を純粋に求める段階、これこそが私の中にあった心の叫びだったのだと気づきました。

 

まだまだ私もこの段階へは至っておりませんが、仕事をする中で低次元の欲求に満たすことに満足せずに、より高い次元の欲求を満たせるようにしていきたいです。

 

 

今夜はここで失礼します。

ありがとうございました(#^.^#)

自分を好きになるには?

こんばんは(^^)/

 

たけしです!

 

 

突然ですが、皆さんは自分のことを好きですか?

 

私は昔、自分のことが嫌いでした。

 

小学生、中学生、高校生、大学生の頃からとず~っと嫌いでした。

 

それは人と比べて自分に持っているものがあまりにも少なかったからです。

 

昔から友達もあまり多くなく、寡黙な少年であった私は、外で遊ぶこともなく、家でゲームをして一人で遊ぶことが多かったです。

 

その方が私としては楽だったし、周りの人に比べられて笑われることもないので、そうしていました。

 

だから、一人でいる時間が誰よりも多かったかと思います。

 

そんな私でしたが、高校では弓道部に入り、部内では仲の良い友達も多くでき、友達と外で遊ぶ機会も増えました。

 

しかし、振り返ってみると高校での3年間は私にとっては充実した時間ではありませんでした。

 

高校での部活への取り組みは中途半端であったし、授業も寝てばかりで、これと言って何かをやり切ったというものがなかったからです。

 

そして、大学へ入りもっと色んなことに挑戦し、頑張ろうと決心しました。

 

しかし、大学での私は大学の授業と宿題、バイトに明け暮れる毎日で、私にとってはやはりもの足りない日々でした。

 

ある日、ふとしたきっかけから私は大学で先輩と知り合うようになり、その先輩の知り合いを紹介して頂きました。

 

その先輩に私の悩みを聞いて頂き、そんな私に良い本があるよと本を紹介して頂きました。

 

その本は『聖書』でした。

 

はじめ、私は、え、『聖書』ですか?と思いました。

 

私の問題は自分への肯定感の少なさ、幸福感の少なさでしたが、その答えは『聖書』だと言われました。

 

聖書を読んでみると、すべての答えは『愛』だと書かれていました。

 

そうか、私に足りないの『愛』だったのか、、、と気づかされ、はっとしました。

 

確かに、私は自分を愛せないことで辛かったのかと気づくようになりました。

 

そして、自分を愛せないのは、自分を愛してくれている身近な存在、家族や友人のことを分かっていなかったからだったし、この世界を作った神様が何よりも一人一人の人間を愛しているということを知り、とても私は感動しました。

 

愛してくれる存在がいることを知り、私は次第に自分を好きになれるようになったのです。

 

皆さんは自分を愛していますか。そして自分を愛してくれている存在に気づけているでしょうか?

 

もし、自分を愛せないで苦しんでいるであれば、自分を愛してくれている人がいないのか探してみてはいかがでしょうか?

 

 

今夜はこの辺で失礼します!

最後まで読んでくださりありがとうございました(#^^#)

本当の教育とは?

こんばんは!

 

たけしです(^^)/

 

 

今日は教育について考えたいと思います。

 

私たちは日本にいる限り、幼稚園、小学校、中学校までの義務教育を受け、その後は高校、専門学校や大学へ進学し、社会人になります。

 

そもそも学校へ行く意味とは何でしょうか。

 

社会人になるのが最終的な目標ですから、それに必要な知識やスキルを積むのが学校へ行く目的の一つだと考えられますね。

 

小学校では国語、算数、理科、社会、英語、体育などの科目をカリキュラム通りに学びます。

 

日本ではテストの点数をあげること、点数を上げるための訓練に教育の目的が置かれているかと思いますが、子供たちにとってそれが本当に良い教育なのでしょうか?

 

テストはテスト範囲を勉強すれば誰でも点数を上げることができます。

 

つまり、『テストの範囲をどれだけ覚えたのか』に過ぎないです。

 

この教育では同じだけの能力(知識)を持った人を大量生産するのには適しているかと思いますが、一人一人の能力をテストのみで評価を下し、テストができない子には『ダメな子』というレッテルを貼ってしまう教育だと言えるかと思います。

 

一人一人はみんなそれぞれ違う個性を持った生きた人間です。

 

機械のようなロボットではないのです。

 

私には尊敬している方が一人いるのですが、その方は一人一人を宝のように貴重な存在として接して下さいます。

 

誰かが一番、二番と順位を決めず、みんな『一人一人が個性の王』だと考えます。

 

しかし、日本の教育では出る杭は打たれるように、みんな同じであることを強く要求しているように感じます。

 

そして、面白みのないつまらない人間になってしまうのではないでしょうか。

 

私たち人間が他人と違うのは当然のことなのに、、、

 

もっと多様性を認めてもいいのではないでしょうか。

 

私は私である。あなたはあなたである。みんなそれぞれが個性の宝物。

 

これが私の願う本当の教育です。

 

 

今夜も読んで下さりありがとうございました(#^^#)

 

この辺で失礼します。

ではでは~

認められたいという欲求

こんばんは!

 

たけしです!

 

 

今日、ふとしたきっかけから、友人との会話で、『どうして人は認められたいと願うのか』について話し合いました。

 

人は誰しも認められたい、愛されたいと願うでしょう。

 

その願いが叶うならばいいですが、もし叶わないならどうでしょうか。

 

つまり、誰からも認められず、愛されないならば、その人はきっと生きることが苦しいと思います。

 

だからこそ、他人から認められること、愛されることを過度に期待するのはとても危険なことだと言えるかと思います。

 

私は思うのですが、まずは自分自身が自分を認め、愛することが必要だと思います。

 

自分に自信がない人の多くは自分を認め、愛することが苦手なんだと思います。

 

私も以前は自分を愛し、認めることがとても苦手な人間でした。

 

自分の足りないところ、人よりも劣っているところばかり、気にしていました。

 

でも、それは私の思い込みであると気づくようになりました。

 

人から認められることには限界があるということです。

 

例えば、プロのサッカー選手を目指す中学生がいたとしましょう。

 

その中学生はプロになろうと小さい頃から毎日サッカーの練習をし、ついには日本代表になりました。

 

しかし、その人はこう言いました。『次は世界を制覇したい』と、、、

 

仮にこの人が世界を制覇できたとしても、その人の認められたいという欲求はもっと大きくなり、ついにはその願いに到達できなくなることは、想像がつきますよね?

 

だから、必要なのは人を認められたいということではなく、自分で自分を認められることです。

 

よくできた自分がいるならば、自分を褒めてあげることです。

 

また、人に愛されることではなく、自ら他の人を愛し、自分は愛されているのだと認めることです。

 

人に認められたいと願うのは人間の本能なのかもしれません。

 

言い換えるならば、人は愛されなくては生きていけないのだと思います。

 

人は誰でも愛を求めているのです。

 

認められたいと願うなら、まずは認めて、愛してみて下さい。

 

 

 

今夜はここで失礼します。